慶応病院初訪問

いやはや繁盛しています

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友人が腕の手術をするので慶応義塾大学病院(東京都新宿区信濃町)に入院した。見舞いがてら、病院に行った。信濃町には早慶戦の応援や神宮球場の野球観戦で行っているが、病院はJR信濃町から神宮とは反対側ということもあって、縁がなかった。

初めて門をくぐったが、ロビーは人、人、人。すべてが外来患者なのかどうかは分からない。私のような見舞い客も来ているはずだ。病院のHPによると、「外来患者の平均人数は1日平均3000人で、国内でも最大級の規模」だという。まるで芋の子を洗うようだった。

 

銀座・木村屋が出店していた

銀座・木村家が出店していた(慶応病院売店)

 

手術が終わるのを待つ間、昼食を食べた。地下には雑貨屋やナチュラルローソンなどの売店のほか、銀座木村家が軽食/喫茶/パンの店を出していた。レストランは手狭だが、パスタランチをいただいた。次いで、名物の桜あんぱん、新商品の栗あんぱんも食べた。小さいのに立派な値段が付いていた。

ちなみに、掛かっている看板は銀座「木村家」。山岡鉄舟の手になる書だという。同社にはもう1つ「銀座木村屋総本店」があって、「家」と「屋」で紛らわしい。「木村家」は銀座本店、直営店向け製品のブランド名、「木村屋総本店」はスーパー・コンビニ向け製品のブランド名として使い分けているという。

店側にはそれなりの事情があるようだが、客側には紛らわしいことおびただしい。しかし、そんなことにこだわる客は私くらいなもので、誰も気にしていないのかもしれない。それはそれで寂しいが・・・。

 

 

慶応と言えば、この人が欠かせない

 

人であふれた病院ロビーの入り口にどんと置かれているのがこの銅像。言わずと知れた慶應義塾の創立者・福澤諭吉氏だ。福澤は破傷風の血清療法を確立した細菌学者・北里柴三郎氏と親交があり、それもあって1917年(大正6)、慶応に北里氏を学部長とする医学部が発足。1920年には、同氏を病院長とした大学病院が開院した。

友人の病室を訪ねると、窓の外は工事現場になっていた。医学部創立100年に向けた新病院棟建設事業だった。昨年11月から一部解体工事に着手。新病棟の「1号館」は地上11階、地下2階。

 

大学病院の雰囲気を漂わせている

 

正面玄関の横には和食・喫茶の「百花百兆」と「スターバックスコーヒー」が出店していた。日大板橋病院もスタバが出店している。大学といういかめしさは感じない。花屋さんもあるし、民間企業そのものだ。

それにしても、今や自分のかかり付け病院になってしまった東京山手メディカルセンター(旧社会保険中央総合病院)と雰囲気がまるで違う。コンビニもコーヒーショップもあるのだが、広々としている、病院らしい病院なのだ。外来患者の数が慶応より少ないからかもしれない。

どこの病院にも共通しているのは、行けば、必ずひどく疲れるということだ。自分が患者ではない場合も同じだ。病院を出れば、どっと疲れが押し寄せてくる。それでも、歳をとればとるほど、病院との縁が深まってくる。因果なものだ。

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