徳川吉宗は天文学者だった

 

地球儀・天球儀の話をする鈴木一義氏

地球儀・天球儀の話をする鈴木一義氏

 

地球儀が好きだ。まだ自分では持っていないが、いつかは買おうと思っている。4月に急逝した友人は地球儀が好きだった。故人の広い部屋の中でも存在感を示していた。

世界情勢がめまぐるしく変わる現代では「地球儀を買ってもすぐに国変わる」との指摘もあるが、「いつでも最新地図に交換(有料)できるアップデート・プログラム」(世界最大の地球儀ブランドを自称する米リプルーグル・ゴローズス社)もある。日本メーカーとしては渡辺教具製作所(埼玉県草加市)が有名だ。

丸善・日本橋店3階の「ワールド・アンティーク・ブック・プラザ」(WABP)で「江戸時代の測天量地と天球儀・地球儀」と題するギャラリートークが行われた。講師は国立科学博物館産業技術資料情報センター長の鈴木一義センター長。

■地球という概念は、古代ギリシャ時代にピタゴラスやアリストテレスらによって考えられており、さらにエラトステネスは夏至における子午線の実測から地球の大きさ(周長)を計算し、また経緯線を用いた地図を初めて製作したといわれている。

■さらにローマ時代には、プトレマイオスが従来の天文学や地理学などの集大成を行い、経緯線や円錐図法を用いた地図製作により、その水準を大きく進歩させた。

■その成果が十字軍の遠征などでアラビアからヨーロッパに伝わり、大航海時代に必須の地図として大きく発展した。特に地球儀は、航海の方位確認などに不可欠で、天体観測用の天球儀とともに、航海用、教育用、装飾用として盛んに製作された。

■日本へは、織田信長が所蔵していたことがフロイスの『日本史』に記述されており、また天正19年(1591)には遣欧使節が帰国後に豊臣秀吉へ地球儀を献上した記録が残っている。

■航海や天体観測に大きな役割を果たした望遠鏡は1608年に発明され、ガリレオ・ガリレイが木星観測を行い、1609年には地動説を唱えた。その4年後の1613年には英国船長から徳川家康に献上されており、天球儀や地球儀も、平戸や長崎に当時既に伝わっていた。しかし、それらが日本で実際に利用されたのは渋川春海による暦製作(1684年)に始まる。

 

ファルク「天球儀」平戸・松浦史料博物館レプリカ

ファルク「天球儀」平戸・松浦史料博物館レプリカ

 

織田信長が見たという地球儀やザビエルが大友宗麟に寄贈したとされる地球儀は現存していない。江戸時代に海外からやってきた地球儀で現在日本に残っている最古のものがオランダの銅版画家・地図製作者・出版社のゲラルド・ファルク(1652~1726)および息子のレオナルドが製作したファルク地球儀・天球儀。

この一組を大切に所蔵していたのは九州・平戸藩9代藩主・松浦静山(1760~1841)。平戸にあったオランダ商館は1641年に長崎の出島に移転したが、静山はかつてオランダ文化に強い関心を持ち、積極的に関係資料を収集した。

この平戸版は1780年頃、静山によって収集され、現在世界に確認されているすべてのファルク製地球儀・天球儀の中でも、表面にニスを塗らなかったため、保存状態が良いとされる。

レプリカ製作(渡辺教具製作所)ではさらにシミや汚れがとられている。オリジナルを所蔵する松浦史料博物館の許可を得て、3分の2のサイズで製作されている。

個人的に興味深かったのは徳川家8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)が天文学者だったこと。享保5年(1720)、寛政の焚書例を緩和し、野呂元丈や青木昆陽にオランダ語を学ばせ、西川小休らに「天経或問」(授時暦)など中国天文学書の訓訳を命じ、神田佐久町に天文台を建設させ、、自らも観測を行ったという。

吉宗が偉かったのは漢書を和語で翻訳させ、誰もが読めるようにしたことだ。海外から伝わった当時最先端の有用な知識が一部の知識人だけでなく、広く社会に流通した。それらの本をを読むために寺子屋が発達した。

鈴木氏は講演後、私に「海外の知識人が使ったのでラテン語だった。一般庶民は誰も分からなかった。ラテン語から漢語に訳されたものを吉宗は和語にした。日本人の誰もが理解できるようにした。重要な本はすべて日本語に翻訳されている。明治の文明開化を可能にしたのは日本社会に受容能力があったならばこそだ」と語った。

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