新型コロナ感染症対策自体が「禍」(わざわい)を生む「コロナ対策禍」=金井利之東大教授
ゲスト:金井利之東京大学大学院教授(自治体行政学)
テーマ:著者と語る『コロナ対策禍の国と自治体ー災害行政の迷走と閉塞』(ちくま新書、2021年5月)
2021年8月31日@日本記者クラブ
自治体行政を専門とする金井利之東京大学大学院教授は、国や行政が講じた新型コロナウイルス感染症対策が「禍」(わざわい)を招いている現状を「コロナ感染禍」と位置付け、そのメカニズムや災害行政の在り方を著書で論じた。司会は坪井ゆづる日本記者クラブ企画委員(朝日新聞)。
■「コロナ対策禍」とは行政が対策を行うことで返って問題を悪化させること
・「コロナ対策禍」とは行政が対策を行うことで返って問題を悪化させることがあり得るという視点から名付けた。こうした視点は目新しいことではなく、公共経済学では「政府の失敗」、行政学の分野でも「政策の失敗」という形で議論されてきている現象だ。
・「対策をしなかったことによる禍」と「対策によって生み出された禍」というのは論理的には両方あり得るが、現実の世界では厳密に対比できない。一般には政治的に無策は非難されるので、行政は効果が分からなくても何がしかの対策を打たざるを得ない圧力にさらされる。それゆえ「対策禍」という現象が生じやすい。
・「対策禍が起きる」ということは政策に失敗があった、あるいは問題があったということになる。逆に言えば、対策禍がないこと、つまり成功することは行政が目指すべき望ましい姿だという考え方もあろう。
・「対策禍」を認識しながらむしろ対策はうまくいったと成功の宣伝こそがより大きな禍(わざわい)を見えにくくしていることもあるので、「コロナ対策禍」が発生していること自体が必ずしも悪いというふうには言えない。
・むしろ対策禍が生じているにもかかわらず、それがうまくいったと世の中に通用していることのほうが問題である。「コロナ対策はうまくいっていない」「コロナ対策禍が発生している」と思うこと自体は決して悪いことではない。
■「自宅療法」は実質的な「治療拒否」
・「自宅療法」という方法が今回採られているが、自宅療法をしている人に何もできないのであれば、実質的に治療拒否が行われていると言わざるを得ない。
・本当にリスクがあって、かつそのリスクを認識する状態は専門家が推奨する「正しく恐れる」状態だ。しかしわれわれの認識能力は必ずしも正確ではないので本当はリスクがないにもかかわらず認識としてリスクがある「間違った恐れ」を生む可能性がある。
・本当はリスクがあるにもかかわらず「リスクはないんだ」と間違って恐れない可能性もある。
・本当にリスクはない状態で、自らもそれを認識する。「正しく恐れない」。事実と認識がずれる可能性があることは感染症対策に限らず、かなり広い政策の領域でみられる。
・「もしかしたら起きるかもしれない」ことを過剰に考えるとどんどん対策を強化する方向に作用する。過剰な対策の行政が踏み込みやすいことを考えて現実の対策を考えていくことが重要だ。濡れ衣を着せられる可能性が強い。
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■「自粛要請」という手法で行われた日本の行動制限
・ウイルス感染症対策では「行動制限」が取られている。自由の抑制だ。不要不急の外出抑制、営業時間の短縮・休業、会食・イベントの休止、県境をまたぐ往来禁止、帰省中止、仕事のリモート化、学校のリモート化など「広範で曖昧な自由制限」だ。
・日本では自粛要請という形で、一部は公的権力に基づいて行われている。現実に行動制限が起きてみると、抽象的な価値理念にとどまらず人間社会生活そのものの制限であることに気付かされる。社会に対する大きな禍だ。
・日本の行動制限は法的強制よりは自粛を要請するという手法で行われてきた。欧米諸国のように法的強制を生まなかったという意味では対策禍を最小限に抑えたんだという見方がある。権力行使は最小のほうが望ましいとの判断があり得る。
・日本の自粛は集団圧力という権力を使って行われた。自分の判断で行うべきことで珍しいことではない。さまざまな集団的圧力、自分は自粛しているにもかかわらずあの人はしていないという相互の圧力、自粛していないと他人から言われたくないという自己防衛から、多くの人は自粛という名の下でおのれの行動を抑制する。
・自粛の問題は自分が抑制しているにもかかわらず他の人はどうかという極めて強い不公平感と正義感を喚起する。そして他人を責めるという社会の分断を招きやすい。行政やマスコミは感染症対策として自粛を広報し宣伝することになり、行政やマスコミ関係者の行動が3密・会食を行っているとの報道もなされ、大いなる矛盾と不満を生み出す。自粛警察といわれる現象だ。
・自粛という社会的正義をしっかりと力を振るわない行政に代わって自ら実現し他人を攻撃することを自己正当化できるという恐ろしい現象が起きた。他県ナンバー狩り現象も起きた。
■日本に元々あった「上級国民論」
・ワクチンハラスメントも起きている。接種しない従業員を解雇する。名札に表示させる。ワクチンパスポート、ワクチン証明もある。もっぱら海外活動に使用するもので、現在は国内的に使われないので妥当だが、行政が後押しすることになり、ワクチンハラスメント的に使うことも考えられる。公的お墨付きを与えることになる。
・もともと日本社会には「上級国民論」があって一部の人だけが見逃されているのではないかという不公平感が強く存在するが、新型コロナウイルス禍でも続いている。
・集団圧力を使った自粛手法だが、最近では法的権力行使への願望というのが行政の間でも国民の間でも登場しつつある。公的に明確でない現在の要請方式ではどこまで自粛すべきなのか不明確であり、他人から攻撃されないようにリスク回避的に過剰抑制せざるを得ない。法的に線引きを明確にすることによってどこまで可能なのか、どこまで行動制限をしないで済むのかなどを明らかにすべきだ。いわば法治主義的な理念が提唱されている。
・しかし法的規制によって行動制限の領域を明確に分けるという発想は欧米社会では成り立つかもしれないが、自粛制約や同調圧力の強い日本では全く成り立たない。法的に義務づけされると同調圧力にお墨付きを与える、あるいは自粛警察に裏書きをすることになる。コロナ対策禍を深刻化させることが予想される。
■法的権力の行使はより大きな対策禍を生む恐れ
・法的権力行使をすべきだという主張は自粛要請ではもはや行動制限の効果がない。従って法的権限によって実効化すべきだという主張だ。しかし自粛要請が効かない上、同調圧力がこれだけ強い世の中で成り立たないものに対して法的権力で縛ればどのようなマイナスが起こるのか。より大きな対策禍が生じるだろう。
・自粛要請は、行動した人は行動制限の不利益を受けるが、自粛しない人は行動制限しないままで不公平である。正直者が馬鹿を見る仕組みだという議論がある。自粛しない人にも公平に制限をすべきではないか。法的規制は万能ではなく、逃れる人は逃れる。上級国民論は教えている。
・現時点で問題になっているのはいかなる行動制限あるいは自由の制限がどの程度必要なのか明確になっていないことだ。どの程度の制限をどのようにすべきなのか。感染症対策としてはあまりよく分かっていない。マイナスプラスの比較考量ができていない。
・全くできていないところで「やれ」といわれても国民はそれを理解することは大変困難である。第1次宣言時はいったん自粛したが、その後をみてもあまり効果のないことが諸外国でも指摘されている。ロックダウンが機能するか分からない。
・闇雲に行動制限しろと言われても困る。説得力を持っていない。説得力がないから法的な力で押し込もうとすればますます大きな禍を招く。行政や専門家は無為無策ではいられないため取りあえずこのような提言に成りやすい。
■日本はロックダウンできない社会
・日本の災害対策や危機管理型の発想は極めて単純だ。災害のような場合は権力を集中させ司令塔がリーダーシップを発揮すべきだ。リーダーの指示に自治体や企業、マスコミ、大学、病院は従うべきだ。行政が指示をして行う。端的に言うと配給経済。統制経済とも言える。
・初期の応急対応(避難所の設置や食料・水の配給・仮設住宅の建設・義援金の配分)は行政が財やサービスを配給することからきている。集中権力が配給を実現できるのかと考えるとほぼ不可能に近いと言わざるを得ない。
・そもそも日本行政というのは類似の行政改革によってリストラや外注化が進んでおり、現場で具体的にロジスティクスをする作業はほとんどしていない。行政職員が自ら住民に直接サービスを提供する体制になっていない。
・非常事態時に現場行政は一所懸命配給を行おうと努力してもおよそ満足水準にはほど遠い水準にしかならない。災害時には市場経済は止まっており、やむを得ないが、それが長期に続くことは理解を越えている。画期的な状況を越える配給経済的な発想ではおよそうまくいかない。
・サービス提供へのコロナ経済禍というのはまさに配給経済の限界だ。アベノマスクは非常に困難で最終的には市場の力で解決するしかなかった。現物を配るのは難しく、現金給付ですら迅速かつ的確に配分することは難しかった。
・優先順位を付けワクチン予防接種を始めたが、予約が取れないという見えない待ち行列が大量に発生した。旧ソ連で物資が常に足りず行列をしたが、こういう状況がワクチン接種では生じた。
・大規模接種や職域接種を行えばうまくいくと権力集中した司令塔は考えたようだが、絶対量が不足しており、スピードが速まることはあり得なかった。
・自宅療養は外出させないために必要物資を宅配する必要があるが、行政が行うので低水準で不確実になることは避けられない。入院療養でもQOL(Quality of Life= 生活の質)が確保されているわけでもないが、自宅療養の場合はそれが著しい。
・ロックダウンや緊急事態宣言はまさにすべての人や自宅療養し配給をする役割を行政が担うことになるが、大変難しい。
・日本の行政にはいわばロックダウンとなって行政自体を配給経済をするというような行政上のインフラを全く持っていないことが露わになった。ロックダウンできるような社会にはなっていないことが明らかになった。
■「悪化しないと入院できない」
・最後に医療サービスについても同じような問題が起きている。日本の医療サービスは皆保険制度といわれており、いわゆる「準市場方式」という仕組みだ。社会保険制度によって自己負担(支払い価格)を安価に設定しているが、最終的には市場的にサービス提供者を決めることになっている。自己負担額が安くなっているものの、無料ではないので一定の自己抑制も埋め込んでいる。
・このような中でフリーアクセス(自由診療制)を取っている。サービスの配分に対して明確な門番の機能がない仕組みだ。国民は国民皆保険の下で医療機関を受診することを自由に選択できるが、こうした需要に対して供給体制が追い付かなければ大行列が生じてしまう。供給を増やすメカニズムも持っている。
・あまりにも供給を増やすと社会保障、医療費経済が成り立たないということで医療費を抑制するためにさまざまな手立てが取られている。そのために医療従事者は日常的に過剰労働になっており、高い病床稼働率や病床の抑制、病院統合措置が取られている。過剰な医療供給をしないためにギリギリのところでサービスと需要と供給が一致するように診療報酬等を含めて調整されてきた。
・介護の場合は要介護認定という門番機能があり認定を得ないと公的介護サービスは受けられない。要介護認定の遅延や制限がある場合には様々なサービス不足が生じる。サービスを受けられない弊害が生じている。
・指定および新型インフルエンザ感染症対策はフリーアクセスの仕組みではなく、完全な配給経済になっている。保健所または府県の入院調整機関が門番として機能している。門番して立ちはだかっている。全額公費負担になっている。
・感染症の建前は保健所の指示で陽性者は原則入院すればいいのだが、さまざまな問題が発生している。門番機能が突然現れて、そこが機能不全を起こす。
・日常的な医療制度はフリーアクセス制。元々保健所というのは日常的に医療の門番機能を持っていない。人員も専門性も不足している。必ずしも医師ではない保健所職員が入院・宿泊医療・自宅療養の鑑別というような医療的な差配を行っている。この負荷は極めて大きくかつ大変曖昧になっている。
・加えて自宅療養の場合、生活物資の配給経済の任務を保健所が負っている。緊急時にのみ保健所に対処を求めるのはどう考えても保健所の対応能力を超えている。このような配給経済は行政がサービスを提供しない場合、直ちにサービス欠乏が生じる。現在保健所から陽性の判定を受けると一般の医療サービスへのアクセスができなくなるいわば「治療拒否」という状態が起きる。
・理屈上は保健所が入院施設を探すことになるが、現実にはそうなっていない。結果どうなるかと言うと、「悪化しないと入院できない」。悪化しても入院できる保障もない。全般的な生活困窮に陥る。それを支える能力は保健所にはない。大変深刻な事態だ。
・医療サービス提供体制が現状ではなり立たない。こういう対策禍をもたらしてしまった。
■バイトを止めたら生活が困窮する仕組み
・(ワクチンの接種についてどう思うか)国内でワクチンは任意接種方針を選択しており、社会経済の有り様が変わることは適切ではない。個人の自由。行政や事業者の責任でもある。どうなるかも分からない。ワクチンの効果もよく分かっていない。
・任意の選択といいながら同調圧力を政策当局は想定してわざとそれを使っている側面があり、そちらのほうがより大きな弊害を生んできている。諸外国の事情とは異なる。社会が異なるときに「外国の状況を導入する」のを「出羽の守」というが、この問題については妥当とは言えない。
・「差別はいけない」と国や知事会などでも言っているが、ウエートは小さい。あまり差別対策をすると感染症対策が進まなくなるから。事実上同調圧力に期待している。
・(なぜ日本はロックダウンができないのかについてもっと説明を)これは「なぜ君は100点を取れないのか」と同じ難しい質問だ。勉強ができないのと同様に事前に備えがなかったから。日々の営業がなければ生活が成り立たない。バイトがなければ生活が困窮する仕組みになっていたからだ。
・非正規に依存するような経済システムを1990年代から作ってきた。よくも悪くも経済の仕組みがロックダウンできない社会にしてきたことが経済の面では言える。定額給付金や持続化給付金など現金給付をする仕組みを臨時で行ったが、日常的に現金給付を広く行っている社会であれば(行政から個人に現金を流すルートができているならば)早く注入できるが、1回こっきりのルートを確保することは極めて難しい。基礎的な体制が日本の場合成立していない。
・しばらく働かなくても暮らしていけるような社会になっていない。学校が休めばたちまち子育ての可能性がなくなる。いろんな意味で綱渡りの社会だった。財政がないから仕方ないと言われればそれまでだが。ギリギリの生活をしてきたところに、社会の余裕がない中で動きを止めたら、それこそ深刻な打撃になった。
・政府はそのような現状を認識したら、ロックダウンと口で言うのは簡単だが、それはそんな簡単なことではない。もし本当にロックダウンしたら、相当な生活上の打撃が出る。1回やっただけでこれだけ疲弊している。政府の当局者は考えているはずだ。
・財政調整基金がろくにない県の知事が何を考えて言っているのか。「国に金をよこせ」というだけでは無責任な話だ。国民も何か劇的な対策を取らないと思う気持ちは分かるが、ロックダウンが大事だと思うのならやったらどうなのか。難しいはずだ。引きこもるセルフ・ロックダウンしかないのかもしれない。
・ヨーロッパに暮らしたことのある方は分かると思うが、1990年代までのヨーロッパは土日にスーパーマーケットはお休みだった。特に日曜日はお休み。夜間もお休み。平日は仕事している。いつお店に行けばいいのか分からない社会だった。いわば「巣ごもり」に慣れている社会。冬が長い。冬ごもりしている社会。籠城戦を戦ってきた社会でもある。城の中に立てこもって戦うことが社会の記憶としてある。
・日本でそんなところがあるのか。経験も知識もない。江戸城はあっという間に無血開城した。往生したことがない。第2次大戦中は籠城させられたが、悲惨な結果を招いた。社会の状況が全く異なる中で安易に考えるのは問題だ。
・「ロックダウン」という言葉が日本語にないこと自体、ロックダウンは日本ではあり得ないことを意味している。中国語では「封城」と言うようだ。中国の都市は籠城する都市なので社会のあり方がまるっきり違う。唯一ロックダウンできる可能性があるとすればかつての雪国の生活ができる人だが、現実的ではない。
・非常に弱い形でもロックダウンできる社会を構築することが必要だとわれわれが思うかどうかというのは中長期的に大きな政策的な議論だと思う。すぐバイトをしなければすぐ干上がってしまう社会でいいのか。あるいは四六時中買い物に行けないとモノがない社会でいいのか。これを問い直して社会自体の基礎体力を変える議論をしてそれを行うかどうかはコロナがわれわれに突きつけた課題だと思う。
・当面はいままでの体質に基づいた対策を行うしかない。体質に合わない、基礎体力を超えるような劇薬を飲むと大変な対策禍が生じる。政権は第1次非常事態宣言の限界をよくわきまえている。
・ロックダウンは対策の禍が大きい割りには効果が薄いということを考えると、まだ他の方法を採っていくしかないのではないか。ロックダウンはできるのならばできる方法を証明してほしい。