【名画座】なぜウクライナはこれほどロシアに抵抗するのか=「ホロドモール」(飢餓による殺害)の実態をあばいた政治映画『赤い闇』

スターリンの闇をあばいた実録ドラマ(ポレポレ東中野)

 

 

作品:『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(原題:Mr.Jones)
監督:アグニェシュカ・ホランド
原案・脚本・製作:アンドレア・チャルーパ
キャスト:ガレス・ジョーンズ(ジェームズ・ノートン)
エイダ・ブルックス(ヴァネッサ・カービー)
ウォルター・デュランティ(ピーター・サースガード)
ジョージ・オーウェル(ジュゼフ・マウル)
2019年製作/ポーランド・ウクライナ・イギリス/118分
2022年6月9日@ポレポレ東中野

 

■緊急上映された『赤い闇』

 

ポレポレ東中野は主としてドキュメンタリーの名作を上演しているミニシアターで、ときどき利用している。この日は練馬で床屋に行った帰りに立ち寄った。床屋が終わったのが午後1時30分。その後練馬に2軒あるドトールの1軒に行くつもりだったが、何気なくポレポレ東中野を検索したら、本日16時から『赤い闇』の上映予定とあった。

「政治映画はサスペンスであるvol.3-ウクライナ編」とある。「ポレポレ東中野では不定期に<政治映画はサスペンスである>を開催している。今回はウクライナ編として緊急上映する」とあった。

このブログでも結構書いているロシアによるウクライナ侵攻。ロシアは「過剰な国防意識のある国」で、軍事力は使うために持っていると発想する国でもある。軍事力行使の敷居がわれわれが思っている以上に低い国でもある。

プーチン大統領の大国主義的な言動はとうてい理解できないが、一方でなぜウクライナ国民が自国を破壊されながらも必死に抵抗を試みるのかについても不思議であった。中野経済新聞によると、ポレポレ東中野の企画担当者は「その答えは1つではないだろうが、その一片が『赤い闇』からうかがえる」と指摘する。これは見なければなるまいと思った。

 

■1記者があばいたホロドモールの実態

 

ロシア・ポーランド文学者で名古屋外国語大学副学長の沼野充義氏が「赤い闇」のパンフレットで、1932年から33年にかけてウクライナで大規模な飢饉が起こっていたことを書いている。ソ連政権はひた隠しにし、国外ではなかなか実態が明らかにされなかった。今では「ホロドモール」(ウクライナ語で「飢餓による殺害」を意味)と呼ばれている。

「時代は1930年代初頭。ロシア革命の指導者レーニンが1924年に亡くなった後、政権を掌握したスターリンは1920年代末から「5カ年計画」という経済計画を導入。革命によって誕生したソ連を工業化して近代化を推進。その結果、モスクワは繁栄を謳歌しているように見えたのだが、その資金源は何だったのか?」

この謎を解き明かすために単身モスクワに乗り込み、驚くべき行動力でソ連当局の監視をかいくぐってウクライナの農村に潜入し、自らの足で歩き回って飢餓の実態を取材したのが本作品の主人公でフリーランス記者のガレス・ジョーンズ(1905年~1935年)だった。

ジョーンズは1930年、ケンブリッジ大卒業後、挙国一致内閣の首相を務めたロイド・ジョージ(1863~1945年)の外交アドバイザー(個人秘書)に命じられる。ロイド・ジョージはウェールズの母の実家で育てられたウェールズ人。

ジョーンズは1930年の夏に初めてウクライナのユーゾフカ(ドネツクの旧称)を訪れる。ユーゾフカは1924年にスターリノに改称され、61年にはドネツクと改められる。ドネツクはドンバス重工業地帯最大の中心都市の1つ。

1932年はアメリカで深刻な恐慌が吹き荒れる。ジョーンズはニューヨークでPRで有名なアイビー・リー氏の元に身を寄せていたが、経済的理由からアイビー氏のもとを去り、再びロイド・ジョージ氏のもとに戻った。秋頃にはスターリン政権のソ連で飢饉が起きているという噂がロンドンで起き始めていた。

 

■NYタイムズ・モスクワ支局長が飢餓を否定する記事を書く

 

ジョーンズ氏は1933年1月末から2月頭にかけてドイツを訪問する。アドルフ・ヒトラーが首相になって数日後、フランクフルト行きの飛行機でヒトラーとの単独インタビューに成功する。3月に飢饉の噂を調べるため、ソ連とウクライナへ3度目の渡航を行う。

同年3月29日、ベルリンに戻ったジョーンズは、飢餓の真実を伝える有名なプレスリリースを発表。New York Evening Post,The Manchester Guardianを含む米国、英国の新聞に掲載される。

これに反論したのがニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティだった。スターリンの政策を称える記事を書き、ピューリッツァー賞も受賞した大物だった。

デュランティは3月31日、「腹を空かせているが、飢え死にしているわけではない」とのジョーンズの記事を否定する記事をNew York Times紙に書く。

一方ジョーンズは5月13日、New York Times上で辛辣な反論記事を展開する。その後もジョーンズはフリーランスとして米英の様々な新聞に飢餓に関する記事を書き続ける。

ソ連のリトヴィノフ外相はソ連を貶めるような記事を書いたジョーンズのソ連入国を拒否する措置をロイド・ジョージに向けた手紙で通告する。ソ連への出入り禁止処分を食らった格好だ。

ジョーンズは調査の目を東洋に向け始め、1934年後半に英国を離れ、日本に出発する。5~6週間日本に滞在し、満州国について調べ、主要な人物へのインタビューも行う。ソ連諜報員として有名だったリヒャルト・ゾルゲのアパートにも滞在している。

ジョーンズは1935年8月12日、満州国で何者かによって殺害される。The Timesは8月17日の記事でジョーンズの死について3発の銃弾跡があったと報じている。

 

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