長く苦しい「停滞」の美しさに酔う藤沢周平の遺作『漆の実のみのる国』再読

 

 

書名:『漆の実のみのる国』(文春文庫)
著者:藤沢周平
出版社:文藝春秋

 

■17歳で9代米沢藩主に

 

藤沢周平の遺作『漆の実のみのる国』を再読した。昨年、米沢市も訪れた。貧窮のどん底にあえぐ出羽の国・米沢藩の財政立て直しに懸命に取り組む上杉鷹山(1751~1822)の歴史を丁寧に描いたものだが、描かれているのは同国を襲う苦悩に次ぐ苦悩、貧困にあえぐ住民の姿だ。

残念ながら、財政再建にたどり着いた成功談はこの本にはない。それを期待して「上」を読み、「下」を読み次いできた人には合点が行かないだろう。あれだけ苦悩を強いられた米沢藩である。最後の最後には必ずや、頑張って成功した証を示してもらえると思っていた。著作にはそれが見当たらない。なぜだろうか。

文庫本の解説を書いた作家の関川夏央氏によると、1993年1月から連載を始めたが、「1994年末から体調の不良に苦しんだ。昔、結核を患った際、輸血から感染した肺炎が発症した。藤沢周平は96年4月号から連載を中断していた」。

「しかし、入院中も彼の執筆意欲は衰えず、回復したら生涯初めての書き下ろし小説として石川啄木を書くことを構想していたし、『漆の実のみのる国』はあと2回分40枚、長くとも3回分60枚を予定していた」という。

「やはり予定されていた数十枚はついに書かれず、それが最後の原稿となった」。藤沢周平は1997年1月26日、69歳で亡くなっている。

上杉鷹山は出羽の国米沢藩の9代藩主。1751年日向高鍋藩主・秋月種美(たねみつ)の次男として江戸藩邸で生まれ、1760年に米沢藩主・上杉重定(しげさだ)の養嗣子(ようしし=昭和22年の法改正まで続いた制度の1つで、家督相続人となるべき養子のこと)となる。

幼名は松三郎、のちに直松、通称直丸。治憲(はるのり)を名乗り、一般には剃髪後の「鷹山」(ようざん)で知られる。高祖父(祖父母の祖父)に「赤穂事件」で敵役として知られる吉良上野介(こうずけのすけ)がいる。

母方の祖母が吉良上野介の子で、米沢藩主の上杉綱憲だった縁から上杉重定の養子となった。治憲が米沢藩9代藩主に就任したのは17歳の時だった。1767年(明和4年)4月24日だった。当時の米沢藩は、破綻寸前の財政難、農村の疲弊に苦しみ末期症状にあった。

 

■漆・桑・楮合計300万本植立て計画

 

治憲は早速藩政改革に着手し、大倹約令の発令、農村復興、地場産業の振興など、さまざまな政策を実行した。彼のブレーンは国元の執政・竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)と治憲の側近・莅戸九郎兵衛善政(のぞき・くろべえ・よしまさ)、木村丈八高広(きむら・じょうはち・たかひろ)、学問の師でもあり治憲の侍医でもある藁科松柏(わらしな・しょうはく)を結ぶ改革派らとともに練った政策だ。

殖産興業に通じた民政家・竹俣当綱が財政に明るい莅戸を同道して「3本植立て計画」を治憲に提出したのは安永4年(1775年)10月4日だった。就任から8年がたっていた。

・漆木    100万本
・桑木    100万本
・楮(こうぞ)100万本

記されているのは15万石の貧しい藩を実高30万石とする案である。当綱は初めて3本植立てを口にしたときに「起死回生の策にござります、これよりほかにわが藩が生きのびる道はありません」と言ったが、治憲は「当綱はついに米沢藩が貧苦から抜け出る道を見つけたのだろうか」(『漆の実のみのる国』下)と書いている。

ただ治憲の胸にはかすかな不安が胸をよぎった。「3本植立ては非凡の大策だが、そこまで言い切っていいものかどうか。貧苦に喘ぐ15万石の藩が、ゆとりある実高30万石に変わるということをそのまま信じていいのか。埋め立て計画が、どこかで齟齬することはないのだろうか」(同)と。

 

■名宰相・当綱が失脚

 

「この時代に藩経済の立て直しに取りかかった藩は米沢藩に限らないが、一般的な傾向を言えば改革は経済に偏りすぎて、当綱のように人間的なあたたか味を重視した施策を心掛けた藩はやはり少なかったであろう。

「この人間を重視する藩政ということでは、当綱と藩主治憲の姿勢はぴたりと一致して寸分の隙間もなかった。そしてこの希な一致は、多分に当綱が治憲の確固とした政治信条に感化された面があったであろう」(同)と藤沢周平は見ている。

「ここまで農村を熟知して農民に同情をそそぎ、その上で理にかなったやり方で農村が持つ潜在的な生産力を引き出そうとしたという意味では、やはりこの時代には希な、艱難辛苦の米沢藩が生み出した名宰相だったということが出来よう」と当綱を評価している。

この当綱は安永6年(1777年)に突如致死(官職を辞して隠居すること)を申し出る。驚いた治憲は「多年努力してきたが、藩の経済は少しもよくならない。疲れたのでやめたいということか」と聞く。

「そのとおりでございます」

「つまり、うまくいかぬから投げ出すというわけだの」

当綱は答えなかった。

「そなたとはじめて出会ったのは、わしが米沢藩世子となって桜田の屋敷に入った翌年だ。わしは10かそこらだった。それから何年経つかわかるかの」

「はて、10年以上になりましょうか」

「16年だ。16年にわたる付き合いだぞ、美作。その間われらは一体となってここまで藩の改革をすすめてきた。わしの言うことに間違いがあるか」

「いえ、仰せのとおりでございます」

「ならば、政治にかかわることでは、何ごとであれ、わしに隠しごとをしてはならん。不満、落胆、憤り、すべて腹にあるところのものを隠さずに申せ」

それではつつまずに申し上げまする、と当綱は言った。「藩再生の実効が、いまだに見えないことに疲れたのは事実でございます。しかしそれだけではありません」

「それがしはもともと傲岸不遜な人間でござります。藩政を指図する上でも、おのれの才を恃み、門地を誇り、人を人とも思わぬやり方を通して参りました。そのことには自身も気づいておりましたが、持って生まれた気質ゆえ、矯(た)めることはかなわなんでござります」。

「近ごろは以前のようなこらえ性をなくしてござります。齢のせいでもありましょうか、思いどおりにいかぬと不平不満はたやすく身の内をあふれ、誰っかれかまわずに非難、叱責の言葉を浴びせずにおられぬ、かようなことが多くなりました。こういう人物が執政の座にいてはいけません。国をあやまる恐れがあります」

「ここまで藩をひっぱってきたのはそなただ。そなたには、事業を仕とげて領民すべてに藩立ち直りの果実が実ったさまを見せる大責任がある。そうは思わぬか、美作」

当綱は無言で平伏した。治憲の説得を受け入れ、執政の職にとどまる意志を示したのである。しかし、その日から5年ののちの天明2年(1782年)10月、当綱は突如として奉行職を解任され、隠居の上、かつての政敵芋川家の屋敷に押し込めを命ぜられた。

 

光が丘図書館から借りてきた『小説上杉鷹山』

 

■”治憲・当綱会談”を”実現”させた童門冬二氏

 

当綱が治憲の裁断をうけて奉行職を剥奪されたのは「豪農の家で飲酒し、藩祖公(上杉謙信)の忌日である13日も遊楽を止めなかったから」だ。奉行職にある者としてゆるされざる言動だった。治憲からこの一件の始末を付けろと指名されたのは莅戸善政だった。

天明3年(1783年)は8月になって凶作の疑いが濃くなった。「見わたすかぎりの平野は暗い雨雲に覆われ、なお降り続く雨の中に、みのらない穂を持つ青立ちの稲田が延延とひろがっていた。それは恐ろしい光景だった」

当綱の首を切った莅戸も致仕し、当綱に殉じて去った。しかし、この隠居した莅戸善政が再登用を命じられて、中老に挙げられることで藩政立て直しは再起動に乗る。57歳のときだった。

「ひとかたならず複雑な藩政に、新たな改革の道をつけ、窮地を打開して行くためには、剛直1本槍のやり方ではなく、進んでは退き、退いてはまた進む粘りづよいやり方が必要だろう。それをするためには、一度や二度の失敗、行きづまりにへこたれない柔軟にして強靱な精神が必要とされる」

治憲は「善政はそのやわらかな精神、しかし簡単にはあきらめない粘り強さをふたつながら内部にそなえているように思う」と考えた。

藤沢周平は「治憲はこのとき、ふと幽閉10年に及ぶ竹俣当綱のことが心を横切ったが、治憲はそれには目をつむる気持ちで話題を転じた」としており、戒律を破った当綱と治憲との再会はなかったとの立場を取っている。

 

■当綱、隠居・鷹山に藩政改革で”意見”

 

これに対し童門冬二は『小説上杉鷹山』の中で、治憲と当綱を再会させている。真偽のほどは分からないが、藩立て直しの柱が「3本植立て計画」だったから、読者としては2人の”密談”を読みたいところだ。童門はこの読者のニーズに応えている。

謹慎中の当綱が治憲(隠居して鷹山と名乗っていた)を訪ねてきた。鷹山は藩主の座を息子の治広に譲っていた。天明5年(1785年)2月6日で、まだ35歳だった。

当綱が鷹山に言ったのは「ご隠居なさったのは大変なまちがいです」ということだった。当綱は「謹慎中の私が参上するのは、死に値します。死を覚悟してまいりました。このたびのご決定が腹に据えかねるからです」と言った。

彼は自分は文句を言いにきたのではなく、本当に言いたかったのは「莅戸善政を、もう一度お用い下さい」ということだった。

「なに・・・」さすがに鷹山はおどろいた。しかし、胸の中では、思わず(妙手だ)と叫んだ。これはさすがの鷹山も気がつかなかった。

鷹山は当綱のこの言葉に驚き、「おまえは今日率直なことをいった。だから私も率直なきもちをいう。治広殿も藩政担当者も苦労が足らぬ。自分で苦労しなければよき政治は自分のものとはならぬ。だから私は口を出さぬ・・・」といった。

「が、そう思っていたのは今日までだ。このままでは米沢藩は潰れる。今日のおまえの話で私も心を決めた。私は藩政に口を出す。隠居の身でできるのは、いや、やらねばならぬのは、憎まれ口をきくことと、泥をかぶることだ」

鷹山は江戸に急使を送り、藩主治広から「藩政改革に父君のご出馬を全面的にお願いいたしたい。いかようのご処置をおとりになろうとも、当主として従い、家臣にも従わせます」と誓わせた。

 

■藩政改革の成功の主因は”愛”

 

寛政2年(1790年)11月22日、鷹山は全藩士に「現藩政に対し、思うところを述べよ。無記名、密封を許す。直接この鷹山が開披する。余人には読ませぬ」と命じた。自分の考えをはっきり署名入りで書いているのもあった。

「ご隠居さまの時は改革が急にすぎ、ご当代さまは緩にすぎます。それぞれの長所を融合すべきでありましょう」「新田開発には水を引くことが肝要です。たとえば、領内北条郷は地味が肥えているにもかかわらず、水利がよくありません。お許しいただければ、私が堰をつくりましょう」

「いままでのご用商人では、余りにも藩の実態を知りすぎて駄目です。酒田の本間家、あるいは越後の渡辺家などの高名な金主にぶつかるべきです」など使える意見もあった。

鷹山は、莅戸善政を登用して、彼に神保容助、あるいは黒井忠寄らを配して、表面は治広体制を強化しながら、内実は鷹山が政治指導をした。

「かつての改革政策を復活し、養蚕を奨励し、その他の国産品を振興し、医学館も建て、堰をつくり、村々に伍什組合をコミュニティとして組織させ、つぎつぎと民需を実現していった。藩政は再び安定した」。

緊縮一本槍の松平定信の改革が失敗の道をたどったのに対し、上杉鷹山の改革は成功した。これは260余もある日本の藩の中でも珍しいことだった。

「鷹山は示したのである。どんな絶望的状況にあっても複眼の思考方法を持ち、歴史の流れをよく見つめるならば、閉塞状況の中でも、その壁を突破する道はあるのだということを」。

「世の中が湿っぽく、経済が思わぬように発展しないと、人々は、どうしても他人を責めたり、状況のせいにしたりすることが多い。しかし、鷹山はそれを突破した。鷹山の藩政改革が成功したのは、すべて『愛』であった。他人へのいたわり・思いやりであった」

徳川幕府による3大改革が、特に名君の松平定信の寛政の改革と、水野忠邦による天保の改革が、余りにも明確に失敗した例によってもはかり知れるであろう。この2人は幕臣や民に対して愛情を欠いていた。それが改革を失敗させた主因である。鷹山は、その轍を踏まなかった。

文政5年(1822年)2月12日、鷹山は病を得て床に就いた。家臣団のすべてが深く憂慮した。しかし、3月12日の早暁、丑の刻(午前1~3時)に、鷹山はついに冥界に旅立った。72歳だった。

鷹山が振興した米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫りにいたるまで、現在もすべて健全だといわれる。

 

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