農業の新たなビジネスチャンス

カテゴリー: 科学/技術/イノベーション, 講演会/シンポ/セミナー/勉強会, 農業/農地/農政

2017/09/15  20:27


 

熱弁を振るう三輪泰史氏

 

ABJ(アグリビジネスジャパン)カンファレンスセミナー会場は3日目の15日(金)も盛会だった。14時からは日本総合研究所創発戦略センターのシニアスペシャリスト(農学)、三輪泰史氏が「loT とAIが生み出す農業の新たなビジネスチャンス」と題して講演した。

loTとAIを使ったスマート農業がなぜ今注目されているのか。これからどう生かされるのか。

食料需給率(カロリーベース)の低下、農業就業人口の減少、耕作放棄地の増加、生産力低下など日本の農業の指標を一つずつ見ていくと、すべてお先真っ暗。だから弱いよね、補助金で守らないといけないと言ってきたのが実情だ。守ってきた行き着き先が今の現状だ。

三輪氏はこのような数字を見て嘆くのはもうやめようと主張した。シンクタンク的な目線から言うと、これらの指標を組み合わせることによって何がチャンスがあるのではないか。農業者が減っていることは一戸当たりの農業面積は増える。その部分に光明を見出す。スマート農業にスポットライトを当てる時代ではないか。

 

日本最大の野菜宅配会社「オイシックスドット大地」誕生

カテゴリー: 講演会/シンポ/セミナー/勉強会, 農業/農地/農政

2017/09/13  23:31


 

「農×食」バリューチェーンの創造に向けて(会場風景)

 

『アグリビジネスジャパンの「農×食」バリューチェーンの創造に向けて』と題したシンポジウムが東京ビッグサイト東2で開催された。パネリストには東京青果経営戦略室長の久保忠博氏、ベジタリアの小池聡社長、オイシックスドット大地の高島宏平社長の3人が登場した。モデレーターは時事通信社のデジタル農業誌Agrio編集長の増田篤氏。

オイシックス(高島宏平社長)は2000年6月、「子どもに安心して食べさせられる食材」をコンセプトに、有機・特別栽培野菜、添加物を極力使わない加工食品など多様な食品と豊かで楽しい食生活に役立つ情報を、オンラインサイト「Oisix(おいしっくす)」で提供する事業を開始した。

13年7月からは、主に働く女性の「忙しくて毎日の食事に妥協したくない」というニーズに応えるため、Oisix基準を満たした安心安全な食材を使い、5種類以上の野菜がとれる主菜と副菜の2品が20分で完成する献立キット「Kit Oisix」(きっとおいしっくす)の展開を始めた。

そして16年12月、有機・無農薬食材の会員制宅配事業の草分け的存在である「大地を守る会」との経営統合について合意に達し、 今年7月1日付で社名を「オイシックスドット大地」に変更した。10月1日付で新社名に切り換える。

「ベジ太郞の家族と食べたい!野菜宅配」によると、会員数はオイシックスが約14万人、大地が10万人。合併すると約24万人となり、この分野で1位の「らでぃっしゅぼーや」(16万人)を抜いてトップに躍り出る。日本最大級の野菜宅配会社の誕生だ。

社名は変わるものの、サービスは変わらない。サービスの対象はオイシックスが30代、大地は40代後半~60代と割と高かったが、統合で幅広い世代にアピールできることが世代の狙いだ。

高島社長は1973年神奈川県生まれ。東大大学院工学系研究科情報工学修了。卒業と同時に外資系コンサルティング会社のマッキンゼーに入社。Eコマースグループのコアメンバーとして活動。2000年にオイシックスを立ち上げた。高島社長は野菜宅配業を「農業に近接しているアグリ業」と位置づけており、統合によるコスト削減能力の向上で宅配価格の引き下げに期待したいところだ。

一方、ベジタリア社長の小池聡氏はIT系出身。同氏は2000年前後に日本で起こったインターネット・ブームを代表したネットエイジやネットイヤーグループをリードした人物。当時最も著名なネット企業の1つだった。

ベジタリアンの創業は2010年。農業ICTに注目が集まる前だった。オランダや米国では「アグリテク」の可能性が問われ出した時代だった。今から7年前である。儲かれば何をやってもいいといった風潮に疑問を持ち、「ITから足を洗いたい」と思うようになったからだ。

2008年、東大の社会人向けビジネススクール「エグゼキュティブ・マネジメント・プログラム」(EMP)に学生として入学した。そこで注目したのは農業だった。人間のエネルギー源である食料の問題は環境、エネルギー、資源、医療などよりも重要だと考えた。

富士通が運営するICT活用のヒントを発信するWebサイト「Digital Innovation Lab」によると、小池氏は2009年に就農した。有機でイタリア野菜を栽培した。しかし、丹精を込めて育てた野菜は病害虫でほぼ全滅。農業の素人にありがちで、無農薬栽培でやろうとした。現実は厳しく、病気や害虫、雑草、天候との戦いだった。

「笑う故郷」

カテゴリー: 映画/テレビ/舞台

2017/09/08  22:29


 

人間の「いやらしさ」を見せつける傑作だ

 

作品名:「笑う故郷」
監督:ガストン・ドゥプラット/マリアノ・コーン
主演:オスカル・マルティネス
2016年アルゼンチン・スペイン作品
2016年ヴェネチア国際映画祭主演男優賞受賞

 

それはノーベル賞受賞作家の40年ぶりの帰郷から始まった。アルゼンチンの小さな市であるサラスから同町出身の世界的な作家ダニエル・マントバーニに「名誉市民」の称号を授与すると連絡があったためだ。

最近では世界中から来るそういった誘いをすべて断っていたダニエルはノスタルジーもあってその誘いを受け、40年ぶりに里帰りした。待っていたのは懐かしい友との旧交。甘酸っぱい青春の想い出だった・・はずだが、まったく人間という奴は・・・。

青春時代を過ごした田舎町、旧友たちとの昔話、初恋の相手との感傷的な再会、町の絵画コンクールの審査委員長も依頼され、故郷の英雄に熱い視線を送る若い女性の出現などもあり、ダニエルは心地よい驚きと、秘密の喜びまでも味わっていた。

しかし、ふと気付いてみると、彼を取り巻く事態は、いつの間にか思いも寄らぬ方向へ舵を切り始めていた。田舎町サラスと国際人ダニエル。彼はサラスで旧友に銃で撃たれた。

撃たれた場面からそのままバルセロナでの記者会見の場に飛んだ。最新作品は何と「名誉市民」。名誉な賞をいただくダニエルが受け取ったのは名誉なのか、それとも侮辱だったのか。その顛末すらも作品化し、自分をあざ笑うノーベル賞受賞作家ダニエル。そんな彼がいた。

 

2017年9月16日(土)~10月27日(金)岩波ホールでロードショー

「チャイナリスク」から「チャイナアドバンテージ」へ

カテゴリー: 会見メモ, 科学/技術/イノベーション

  22:02


 

会見する伊佐進一衆院議員(公明)

 

ゲスト:伊佐進一氏(いさ・しんいち)衆議院議員(公明党)
テーマ:科学技術と日中交流
2017年9月8日@日本記者クラブ

 

科学研究論文のコンピューター科学・数学、化学、材料科学、工学の4分野で中国が世界トップに立ったことが科学技術振興機構の調査で分かった。物理学、環境・地球科学、基礎生命科学、臨床医学は米国が首位で、主要8分野を米中が分け合った格好だ。世界は「米中2強」の時代に突入した。

日経の記事(2017年6月13日付)によると、調査は他の論文に引用された回数から影響力を調べた。トップ論文(上位10%)から米国、英国、ドイツ、フランス、中国、日本に所属する研究者を割り出した。

中国躍進の象徴はコンピューター科学。トップ論文に占める割合が2000年の3%から15年は21%に急成長した。スーパーコンピューターの性能でも13年から中国製が世界1位。16年は1、2位を独占した。60億ドル超を投じ世界最大の加速器を建設する。

急成長の背景には、潤沢な資金と人材獲得戦略があるという。研究費は00年ごろは官民合わせても5兆円だったが、14年には38兆円と急拡大。18兆~19兆円前後で推移する日本の2倍で、米国の46兆円に迫る。先進国で学んだ中国人研究者を呼び戻しているほか、留学や派遣を通じて海外の研究人脈と太いパイプを築く。

トランプ米大統領は科学予算を大幅に減額する方針だ。中国の存在感は増すばかりだ。

伊佐氏は東大で航空宇宙工学を学び、1997年に科学技術庁(現文部科学省)に入省。2007年から10年にかけて中国大使館に一等書記官(科学技術アタッシェ)として駐在し、『「科学技術大国」中国の真実』(講談社現代新書)を書いた。大使館員による現場報告で、「日本の技術力はすでに中国に負けている!?」と銘打ったセンセーショナルなリポートだった。

「中国での科学技術の発展なんて、多くの人が疑いの目で見ていた時代。わたしは現場を回って抱いた感覚は、いつか日本と並び抜いてしまう日も来るとの強烈な危機感」を抱いていたが、「10年の歳月が流れ、それがついに現実のものとなってしまった」と会見で嘆いた。

伊佐氏は現在、公明党の科学技術委員会の事務局長を務める一方、超党派国会議員による日中次世代交流委員会事務局長として訪中を重ねてきた。つい最近も訪中し、改めて中国の科学技術の発展ぶりに驚かされたという。

「日中関係は良い時も、そうでない時もあったが、科学技術交流だけは途切れなかった。日中関係はエモーショナルからシステムになるべきだ」と強調した。

中国はスマートフォンを使った電子決済やタクシーの予約などIT(情報技術)の活用が急速に発展する一方、「インターネット安全法」が6月に施行され、厳しいネット管理・統制がさらに強められた。外国企業が中国で蓄積したデータの国外持ち出しに規制をかけたほか、当局のインターネット接続規制を逃れるために使われてきた仮想プライベートネットワーク(VPN)の取り締まりも厳しくなっている。

そんな中国側の情報管理の厳しさを指摘しながらも、中国とは「科学技術面での協力を推進しなければならない」と強調するのが伊佐氏だ。中国では「シェア自転車」がその1つ。利用者はスマホのアプリで解錠し、乗り捨てたいところで降り、鍵を閉めれば電子決済される。顧客がどう自転車を使ったのかビッグデータが蓄積される。

チャイナリスクを批判するばかりではなく、チャイナアドバンテージもある。中国敵視政策に組みしない公明党議員らしい指摘だった。

 

 

「調査報道は面白い」

カテゴリー: ジャーナリズム

2017/09/04  22:37


 

ダグ・ハディックスIRE事務局長

 

マット・ゴールドバーグIRE理事長

 

日本に足りないのはシンクタンク、インテリジェンス、それにジャーナリズム。トランプ米政権はエリートからすれば笑止ながら、これら民主主義にとって欠かせない3つを持っている。シンクタンクは経済界が支え、自分とは考えが違っても、経済的に一休みできる場所を提供してくれる。政策を立案し、必要に応じて実務家をまるで回転ドアのように政権に送り出す。

インテリジェンスは「諜報」も意味するものの、要は知性、知能、理解力。単なるインフォメーションは情報にすぎないが、掘り下げた情報こそインテリジェンスだ。米国はバカでも大統領になれる。ブレインがしっかりしているからだ。それを支えているのがインテリジェンス。

ジャーナリズムは民主主義の砦だ。これがなくなったら国は終わりだ。既得権益におもねった既成エスタブリッシュメントは厳しい批判を浴びてはいるものの、真実は必要だ。知識とスキルを備えた記者を育てなければならない。

第20回報道・実務家フォーラム東京セミナーが9月4日、早稲田大学小野記念講堂で開かれた。早大大学院政治学研究科ジャーナリズムコース、取材報道ディスカッショングループ、認定NPO調査報道アイ・アジアの主催だ。

米調査報道記者・編集者協会(Investigative Reporters and Editors Inc.=IRE)は1976年にジャーナリストの有志によって設立された。本部はミズーリ州に置かれている。主要メディア、フリーランス、ブロガー、研究者、学生を問わず、調査報道を志す誰でも参加できる。メンバーは5500人を超え、ジャーナリズムの団体としては全米最大といわれる。2017年6月22-25日にアリゾナ州フェニックスで行われた大会には、1600人が参加し、活発な議論が行われた。

元NHK記者で調査報道を専門とする認定NPO「iAsia(アイ・アジア)」編集長の立岩陽一郎(たていわ・よういちろう)氏は今年のIRE大会について、トランプ政権の誕生でフェイクニュースに関心が集まっていることなどから過去最大の1600人を超えるジャーナリストやメディア研究者が参加。ダグ・ハディックス事務局長に「米国のジャーナリズムのついて明るい展望を持っているのか?」と聞いた。

事務局長は「希望と不安が半々というのが正直なところだ。もっと厳しい状況がくるかもしれない」としながらも、「この大会を見てほしい。これだけの人が参加して、みなつながりを持っている。ジャーナリストは米国憲法に守られた存在だ。ジャーナリストが健全な民主主義に不可欠なことを米国民は理解している。だから、私たちはそれを信じて、さらに前に向かっていかなければならない」と答えた。

日本も状況は変わらないと立岩氏は述べた。

41年前の6月、フェニックスで地元紙アリゾナ・リパブリックの記者が車に仕掛けられた爆弾で爆死した。記者は地方政治とマフィアの癒着を取材していた。この日に情報源に会う予定だった。事件の捜査は進まず、迷宮入りかとも思われた。その時、全米からアリゾナにジャーナリストが集まった。警察も行政も動かない中、一つ一つ証拠を固め、最後に犯人を割り出した。「アリゾナ・プロジェクト」の呼び名でジャーナリストに語り継がれている。

発足したばかりのIREが主導したものだった。

「You can kill journalists,but you cannot kill sotories」(記者は殺せる。しかし、記事は殺せない)

日本は文化の違いもあって米国のような活動は行えない。記者も段々、大部屋方式からブース方式に変わり、個別化してきている。各社が孤立化し、各社の動きがつかめない。そんな記者クラブの在り方も含めて分断されている。

双方向の関係を改めて築く必要がありそうだ。「市民を含めたコラボが必要な時代に来ている」。これは日本だけでなく、世界でも同じだ。ジャーナリストはどの国でも似た匂いを持っている。アミーゴだ。

共同通信編集局特別報道室編集委員の澤康臣氏は主催者の1つ、取材報道ディスカッショングループを主導している人物の一人。同グループは2007年11月に誕生した。

「私たちが目指すのは、ニュースを面白くするための白熱教室。取材と報道にあたっての実務的な課題、問題点を現実に即して提示し、具体的な解決への手掛かりを見つけていこうと思っている」(澤氏)。現場で悩む本人の言葉にはうなずくものが多かった。

 

フォーラムが終わったら、外はもう暗かった

 

フォーラム終了は18時30分。外に出たら暗かった。小野記念講堂は前の学生会館のあった場所。大学の周辺も様変わりしていた。

 

映画「葛根廟事件の証言」

カテゴリー: 映画/テレビ/舞台

2017/09/02  17:05


 

あいさつする「興安街命日会」の大島満吉会長

 

映画「葛根廟事件の証言」日本記者クラブ上映会
葛根廟事件の生存者や遺族、関係者ら11組12人をインタビューしたドキュメンタリー
監督:田上龍一(たのうえ・りゅういち)
撮影:片山和雄(かたやま・かずお)/田上龍一
74分版@2017年5月完成、60分版@2017年3月完成
60分短縮版は第20回ゆふいん文化・記録映画祭で第10回「松川賞」受賞

 

 

葛根廟(かっこんびょう)事件とは昭和20年8月14日、旧満州(現中国東北部)の興安総省興安(内モンゴル自治区ウランホト)から避難していた日本人が、ラマ教寺院・葛根廟付近で旧ソ連軍の戦車隊に襲撃され、1000人以上が死亡した事件。避難中の一団は民間人で構成され、犠牲者の多くが女性と子どもだった。

葛根廟事件の生存者らが中心となって、事件の起こった8月14日、毎年目黒の天恩山五百羅漢寺に集まって慰霊祭を開き、犠牲者を供養している。「興安街命日会」を組織している。

戦前、興安に住んでいた大島肇(おおしま・はじめ)氏らの呼び掛けで昭和30年頃から集まるようになった。大島氏が亡くなってからは当時9歳だった次男の満吉氏が中心となって法要を執り行っている。

興安街命日会は2014年、「葛根廟事件の証言-草原の惨劇・平和への祈り」(新風書房)をまとめ、証言集として出版した。また、現地での慰霊法要も収めたドキュメンタリーを田上龍一氏が製作している。

終戦時の満州では開拓団がソ連軍の攻撃を受け、多雨の死者を出す事件が続発。父が軍官学校の教師だった藤原作弥氏元時事通信社記者(元日銀副総裁)は「一国の軍隊の攻撃によって無差別的に行われたジェノサイド」であると主張しているが、旧ソ連の歴史学者らは「事件をねつ造」とし、「神話」と否定している。

助かったのは100数十人とみられ、うち30人以上は中国残留孤児となった。

卓球+玉丼

カテゴリー: 体調/体力/運動/病気, 食/食堂/レストラン

2017/09/01  22:07


 

久しぶりにピンポンを

 

3カ月に一度くらいの割合で埼玉スポーツセンター(埼スポ)に行っている。もっぱら天然温泉だが、今日は妻と卓球をした。ボウリングと卓球、それにビリヤードがある。川越街道を車で20分ほど走る。最近よく混む。

卓球は中学生の頃に部活をしていた。自分なりに自信があるのだが、妻もどうもそうらしい。温泉旅館に泊まったときに仲間とやるくらいで、どうせ大したことがないと思っていたが、どうもそうでもない。

結構なラリーが続いた。15分くらいでしんどくなった。しかし、我慢してやっているうちに1時間過ぎた。7台くらい並んでいたが、1台がふさがっていたG程度で、ほかは空いていた。

 

自動卓球マシーン

びっくりしたのが1人でも楽しめる自動卓球マシーンがあったことだ。誰もやっていなかったが、どういうものだろう。想像はつくものの、本当に力が付くかどうか。年会員になった。

 

大村庵の玉子丼

 

最近気に入っている大村庵(練馬区高野台2)。近所のそば屋だが、ここは玉子丼がおいしい。出汁をとるので、大概そば屋の玉丼はおいしい。

これで700円。味噌汁とたくあん2枚、それに奴が付いていた。しみじみと味わい深く、おいしかった。そばもいいけど、玉子丼は最高だった。親子丼は鶏だから嫌い。妻は鴨南蛮を食べた。こちらもだめ。

鶏がだめだと、レパートリーが狭まるといつも叱られる。しかし、嫌いなものは仕方がない。

『蝉しぐれ』再読

カテゴリー: Books

2017/08/25  13:20


 

「文春文庫」版

 

最近、何度も読み返す本が増えている。新刊書を買う回数が激減したのがそのためだが、そればかりとは言えない。一度読んでも、忘れてしまっていることが多いのだ。感動を再びである。

『蝉しぐれ』もその中の一冊。2011年4月21日に読了している。今は毎日が日曜日。東京ビックサイトへの行き帰りに読み続けた。内容はすっかり忘れていたが、読み始めたら少しずつ思い出した。冒頭のシーンは実に印象的だった。

海坂藩普請組の組屋敷の裏手には小川が流れていて、組の者がこの幅六尺に足りない流れを至極重宝にして使っていた。文四朗は玄関を出ると、手ぬぐいをつかんで家の裏手に回った。晴れている日はつい気を引かれて小川のそばに出た。

普請組の組屋敷は、30石以下の軽輩が固まっているので建物自体は小さいが、場所が城下のはずれにあるせいか屋敷だけはそれぞれに250坪から300坪ほどもあり、菜園をつくってもあまるほどに広い。そして隣家との境、家々の裏手には欅や楢、かえで、朴の木、杉、すももなどの立木が雑然と立ち、欅や楢が葉を落とす冬の間は何ほどの木でもないと思うのに、夏は鬱蒼とした木立に変わって、生け垣の先の隣家の様子も見えなくなる。

文四郎が川べりに出ると、隣家の娘ふくが物を洗っていた。「おはよう」と文四郎は言った。その声でふくはちらと文四郎を振り向き、膝をのばして頭を下げたが声は出さなかった。今度は文四郎から顔をかくすように身体の向きを変えてうずくまった。ふくの白い顔が見えなくなり、かわりにぷくりと膨らんだ臀がこちらにむいている。

–ふむ。

文四郎はにが笑いした。

–ふくは、まだ12だ。

—-

悲鳴を上げたのはふくである。とっさに文四郎は間の垣根を跳び越えた。そして小柳の屋敷に入ったときには、立ちすくんだふくの足もとから身をくねらせて逃げる蛇を見つけていた。体長2尺4、5寸ほどのやまかがしのようである。

青い顔をして、ふくが指を押さえている。

「どうした?噛まれたか」

「はい」

「どれ」

手をとってみると、ふくの右手の中指の先がぽつりと赤くなっている。ほんの少しだが血が出ているようだった。

文四郎はためらわずにその指を口にふくむと、傷口を強く吸った。口の中にかすかに血の匂いが広がった。ぼうぜんと手を文四郎にゆだねていたふくが、このとき小さな泣き声をたてた。蛇の毒を思って、恐怖がこみ上げて来たのだろう。

「泣くな」

唾を吐き捨てて、文四郎は叱った。唾は赤くなっていた。

「やまかがしはまむしのようにこわい蛇ではない。心配するな。それに武家の子はこのぐらいのことで泣いてはならん」

ふくの指が白っぽくなるほど傷口の血を吸い尽くしてから、文四郎はふくを放した。これで大丈夫と思うが、家にもどったら蛇に噛まれたと話すようにと言うと、ふくは無言で頭をさげ、小走りに家の方に戻っていった。まだ気が動転しているように見えた。

しかし翌朝、文四郎が頭上で蝉が鳴いている小川べりに出ると、ふくが物を洗っていた。ふくは文四郎を見ると、一人前の女のように襷をはずして立ち、昨日の礼を言った。ふくはいつもと変わりない色白の頬をしていた。

「大丈夫だったか」

文四郎はそう言ったが、ふくの頬が突然に赤くなり、全身にはじらいのいろが浮かぶのを見て、自分もあわててふくから眼をそらした。

隣の小柳の女房は、醤油を貸せ、味噌を貸せ、時には米や金を貸せとしじゅう物を借りに来るのに、自分から返しに来たためしがない。金はほってもおかれずこちらから催促して返してもらうが、あんなだらしのない人はいないと登世(文四郎の母)はこぼしていた。

それでも登世は小柳の女房が物を貸せ、反物の裁ち方を教えろと来ると、断りもできずにそのつど世話を焼いているのだった。いまも文四郎が見ると、母はむっつりと不機嫌な顔のままで、小さくうなずいた。

「いいです」

と文四郎は言った。

文四郎が承諾したのは、ふくを熊野神社の夜祭りに連れて行くということである。ここ4、5年、ずっとふくを夜祭りに連れて行っており、今年もそれを頼んできたからだ。登世は12になったふくを、もはや子どもとは認めていないのである。そのふくを夜祭りに同道しろという、小柳の女房の無神経さにも腹を立てているはずだった。

藩の内紛に巻き込まれた父・助左衛門は切腹を命じられた。対面が許された文四郎に「わしは恥ずべきことをしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなたたちが苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ」

普請組に車が3台あって、うち1台は2人曳きの小さいもので、甚兵衛がそれをかり出しに行ってくれていた。2人曳きの車を1人で曳いた。車の輪は頑丈で重く、棍棒は太かった。遺体をのせてひき出すと、たちまち車の重みが身体にこたえて来た。時間が9ツ(正午)を廻って、腹がすいて来たせいもあるだろう。

—これでは・・・・・。

いちばん近い道を帰るほかはなさそうだ、と文四郎は思った。早くも流れる汗を袖でぬぐって車の上を振り向くと、羽織でもあらごもでも隠しきれなかった助左衛門の青白い足先が見えた。

車を雑木林の横から矢場町の通りまで引き上げたときには、文四郎も道蔵(途中から助っ人に来てくれた道場の後輩)も精根尽き果てて、しばらくは物も言えずに喘いだ。車はそれほどに重かった。

喘いでいる文四郎の眼に、組屋敷の方から小走りに駆けてくる少女の姿が映った。たしかめるまでもなく、ふくだとわかった。

ふくはそばまで来ると、車の上の遺体に手を合わせ、それから歩き出した文四郎によりそって棍棒をつかんだ。無言のままの眼から涙がこぼれるのをそのままに、ふくは一心な力をこめて棍棒をひいていた。

文四郎は家を移った。引っ越しにふくは顔を見せなかった。そして文四郎は親友の小和田逸平と江戸遊学に出た島崎予之介と情報を交換しながら、育っていく。文四郎を訪ねたものの、会えなかったふくは13で江戸に行き、お福さまとなって殿の新しい側女めになっていた。

里村家老に対する怒りには「よくも罠にはめてくれたな」とものずごいものがあった。眼がくらむような怒りのなかで、文四郎は里村家老にひと言申すべきときかと思った。

里村が向かっている机から3間ほどの場所に座った。

「軽輩とみて、侮られましたな」

肩肘を立てると八双からの剣をふるった。脚を2本切られた机が傾き、机の上の書類や書籍が音たてて畳になだれ落ちた。刀をさやにもどしながら、文四郎は言った。

「その気持ちは、かようなものです」

「侮りを受けてはそれがしも武士、黙過しがたくかような振る舞いにおよびましたが、お腹立ちならどうぞいつでも討手をおむけください。尋常にお相手をいたします」

捨てセリフを言えたのが気持ち良かった。

「蝉しぐれ」は最終章。あれから20年余の歳月が過ぎた。若い頃の通称を文四郎と言った若者は牧助左衛門と名乗り、郡奉行になっていた。大浦郡矢尻村にある代官屋敷にいた。

白連院は藩主家ゆかりの尼寺。そのの尼になることを決めたお福が会いたいと言ってきた。さきの藩主が病死して1年近い月日がたっていた。おそらくお福さまは、その1周忌を前に髪を下ろすつもりなのだろう。

助左衛門はおよそ2里ほど道を馬で駆けた。蓑裏の湯宿に行った。お福は身を隠していた。

「江戸に行く前の夜に、私が文四郎さんのお家をたずねたのをおぼえておられますか」

「よくおぼえています」

「私は江戸に行くのがいやで、あのときはおかあさまに、私を文四郎さんのお嫁にしてくださいと頼みに行ったのです」

「・・・・・」

「でも、とてもそんなことは言い出せませんでした。暗い道を、泣きながら家に戻ったのを忘れることが出来ません」

お福さまは深々と吐息をついた。食い違ってしまった運命を嘆く声に聞こえた。

「この指を、おぼえていますか」

お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。

「蛇に噛まれた指です」

「さよう。それがしが血を吸って差し上げた」

お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけてきた。2人は抱き合った。助左衛門が唇を求めると、お福さまはそれにもはげしく応えて来た。愛隣の心が助左衛門の胸にあふれた。

 

哀惜は名状しがたい。

エルネスト

カテゴリー: 映画/テレビ/舞台

2017/08/23  23:25


 

チェ・ゲバラの”意志”を継いだ男

 

監督・脚本:阪本順治
主演:オダギリジョー
配給:キノフィルムズ/木下グループ
2017年日本・キューバ合作映画
10月6日ロードショー開始@2017年8月23日日本記者クラブ試写会

 

「若く見られるが、来年還暦なんです」と語る阪本順治監督

 

「若そうに見えますが、私来年還暦なんです」と自身を語った。自分の学生時代(横浜国立大教育学部中退)は内ゲバの時代で、大学には新聞会に行くためだけに通ったと述べた。授業料未納につき中退になったのが真相だとも語った。そういう時代があった。

早稲田で学生時代を送ったと思ったが、横国大だった。上映前に監督が映画制作にまつわるエピソードを少し話した。チェ・ゲバラはキューバ革命後、訪日。その記録メモが残されていた。そのあたりも最初に出てきた。

日本からキューバに連れて行ったのはオダギリジョーだけで、あとはキューバ人俳優を使ったという。よくできていた。キューバは格差は少なく、「等しく貧しい」と語った。

 

キューバ革命の英雄チェ・ゲバラ。自らの信念を突き通した行き方、その比類なきカリスマ性によって今なお世界の人々を魅了し続けているこの男は、1967年、ボリビア戦線で命を落とした。

同じ頃、ボリビアでゲバラと共に行動し、ゲバラからファーストネームである「エルネスト」を戦士名として授けられた日系人がいた。その名はフレディ前村。日系二世として生まれたフレディは、医師を志し、キューバの国立ハバナ大学へと留学する。

そしてキューバ危機の最中にチェ・ゲバラと出会い、彼の”意志”に共感し、ゲバラの部隊に参加。ボリビア軍事政権へと立ち向かっていく。

没後50年の時を経て明かされる真実の物語。

ブリを「国魚」に

カテゴリー: 農業/農地/農政

  17:18


 

ブリを国魚に制定するよう熱弁を振るうアプロジャパンの白石俊訓社長(23日、第19回ジャパン・インターナショナル・シーフードショーのセミナー会場)

 

世界の食用魚の50%以上は養殖魚。世界の魚介消費量は右肩上がりなのに対し、日本は落ち込んでいる。日本の水産業はEU、米国に次いで今や輸入大国第3位だ。築地には輸入魚が並び、日本の高級養殖魚は置かれていない。

日本の水産業が衰退したのは①魚の需要期の変化についていけなかった②世界の食品文化の季節感が変わった③サーモンやマグロに比べ、日本の養殖業者は「長期契約」ができない-などが理由だ。

わが国養殖業界が大規模化していく世界の養殖業界と戦うには、養殖魚のブランド化を進めるしかない。給餌について世界は生餌から環境負荷の小さい配合飼料への転換の流れにある。

今はモイストペレット(MP)が主流だが、ドライペレット(DP)やEP(Extruded pellet)に転換しつつある。中規模養殖業界の活路として、①品質による差別化②ロット数のまとめ③技術交流の勉強会④製品規格の統一⑤周年出荷できる養殖法の確立-などが必要だ。

東京五輪2020は世界200カ国が参加する一大イベント。日本の養殖魚を世界にアピールする絶好のチャンスでもある。海洋国家であるにもかかわらず、日本の国魚は制定されていない。ブリを国魚とすることで、水産業界の復活を祈りたい。

国花は桜と菊。国技は相撲だが、海洋立国ながら国魚は制定されていない。ブリは桜が満開になる頃、南太平洋で産卵したぶりっ子たちが流れ藻に守られながら黒潮に乗って日本列島を北上して北海道まで来る。

そして秋になると産卵のため日本列島を南下する。ブリは、「日本列島で住み続ける世界で日本しかいない魚」と言われている。「世界で日本近海にしかいない魚」(小学館WEB図鑑Z「日本の魚とはどのようなものか」(編・監修/中坊徹次京都大学名誉教授)だ。

マグロやサーモンは海外でも飲食できる。国を代表する魚と言えば、ブリ以外にはない。

 

秋ぶりを強調する

 

極上ぶり

 

極上アカバナ

 

☆夏場でも、良質の脂質が20%以上で魚臭がしない「極上秋ブリ」
☆夏場でも血合いの変色が少なく、マグロ赤身の20倍以上のDHA、EPAを蓄えた「極上秋ブリ」
☆天然カンパチの2倍以上の脂質を蓄えた「伝説のアカバナ」

アプロジャパンの白石俊訓社長は扶桑化学工業でリンゴ酸の国内市場を開拓し、35カ国を訪問して世界40カ国に販路を切り開いた。世界市場で50%のシェアを獲得するのに貢献し、社長・会長を務めた。2006年に退任し、2006年にアプロジャパンを設立。養殖魚用の高機能性栄養剤バイオサプリシリーズの製造販売に乗り出した。

同社の主力商品が養殖魚を太らすため、必要不可欠だった魚油を60%カットし、生餌MP(生魚+水分を含んだ固形飼料)に、大豆やトウモロコシなどの穀物や酵素分解物を主成分にした高機能サプリメント「ビタプレシリーズ」。

ビタプレシリーズを添加した飼料で育てた栽培養殖ブリは、魚臭がなく、寒ブリと同等の身質で、9月から選別して初出荷できる。